1999年7月21日水曜日

我は海の子

唱歌 [ 文部省唱歌/宮原晃一郎 ]

日本人の心にしみる曲ではないだろうか。曲も歌詞も最高だ。明治時代からある古い曲のようで、誰が作曲したかも定かではない。

明るい青空ときらめく海。そして真夏の入道雲。懐かしい故郷や子供時代。
私の故郷には海はないが、それでも楽しい子供時代を思わせる。どういうわけか聴くたびに涙がにじむ。

われは海の子、白波の
さわぐいそべの松原に
煙りたなびく苫屋こそ
我がなつかしき住みかなれ

「白波の」のところでメロディが上がっているのに、「さわぐ」で更に上がる。気持ちが一気に高揚する。
「煙り」の部分は起承転結の「転」の部分だ。最高の「結」へといざなう。懐かしさへ結びつけるとは!
「苫屋」とは、要するにボロ家ということだろう。そのボロ屋こそが大切な故郷なのだ。二度と戻れない心の故郷。どんなに金を出しても権力があっても絶対に戻れない大切なものだ。

生まれて潮に浴(ゆあみ)して
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひて童(わらべ)となりにけり

これは2番だ。1番を受けて同じ路線になっていて涙を誘う。「懐かしさ」を回想するように、幼い日を思い出すのだろう。本当に海で育った人には更に心に響くだろう。

3番や4番も同様の歌詞が続くが、実は終盤は軍歌のようになっている。おそらく小学校などではせいぜい3番までくらいしか教えないのだろう。

曲の舞台は鹿児島ではないかという説を聞いたことがあるか、そんなことはどうでもいい。無邪気に遊び、笑った幼い記憶・遠い時代が舞台だ。

[ ピアノで即興で弾いた時の映像が見れます(キーは適当) ]

1999年7月20日火曜日

Songbird

Kenny G [ Kenny G ]

この曲を初めて聴いたのはいつのことだっただろうか。周囲の空気が一辺におだやかな優しさに包まれた思い出がある。自分にはない雰囲気、価値観、目標、生き方の尊厳のようなものを感じた。彼の曲を色々聴いたが、最初に出会ったこの曲が一番だ。

この曲で感じたイメージと重なった不思議なイメージがある。

ある夏の早朝、人のいない公園。木陰のイスに座って、とても穏やかに流れる時間を過ごしている。時折、下に見えている池を魚が跳ねる。池の魚が跳ねるということを初めて知った。周囲をぼんやりと眺め、何をするでもない時間が経過していくだけ。この世からこの場所だけが独立しているかのような感覚に包まれている。

こんなイメージだ。もちろん個人的なイメージなので、この曲とは直接的に何の関係もない。第一、「Songbird」というのに、どこにも鳥が出て来ない。しかし、誰にとっても、その美しい鳥は本当はすぐそばにいるのかもしれない。だからといってそれは近いものなのか、遠いものなのか、誰にも分からない。

「Songbird」とは、音楽用語では「女性ボーカル」の意味で使う場合が多い。本来は「美しい声の鳥」という意味で、そのまま曲のイメージ通りだが、当然ながら「美しい女性」というイメージも出て来る。関係ない話しだが、なぜ宝石が美しいのか分かる気がした瞬間があった(個人的に宝飾品には全く興味がない)。それは美しい女性の瞳みたいだからではないだろうか。涙に潤んだような瞳は宝石のようだ。

Kenny Gのサックスに話しを戻す。おそらくソプラノ・サックスだろう。本当に優しくて穏やかでエモーショナルだ。「この曲を聴いてなごんでいるんだ」と言った人がいた。「なごむ」という言葉がとても心に響いた。「気持ちが穏やかになる」とほとんど同じ意味だが、ニュアンスが微妙に違う。

メロディにおいて、高音になればなるほど主張が強くなって、音量を大きくしたり、逆に周囲を小さくして目立つようにしたり、とにかく強烈になる場合がほとんどだ。 しかしKenny Gのサックスはそうではない。時に力強くなることもあるが、高音も優しく響く場合も多い。 彼は演奏中、アドレナリンが溢れるのだろうか?